| 麻布十番について |
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| DISCOVER JUBAN 麻布十番再発見!⑫ |
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賢崇寺と二・二六事件
パティオ十番から一本松に向かって少し行くと、左側に賢崇寺の石門、本堂につづく石畳の坂道がある。側道の階段はゆるやかな上りやすい歩幅で114段、昔は坂道はなく今より急な84段の狭い石段が緑の木陰につつまれるように上まで続いていた。曹洞宗
興国山 賢崇寺、佐賀鍋島藩歴代藩主の菩提寺として寛永12年(1635)に創建されたこの名刹は、昭和20年4月15日の空襲で本堂、庫裏、開山堂、霊廟鐘、位牌堂、土蔵の一切が焼失した。戦後まもないころ、夏になるとここは蝉取りの網を持った子どもたちがミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクホウシを追いかけ、カブトムシ、クワガタムシ、玉虫もいた。昭和47年4月に本堂が、50年4月には鐘楼も再建され、石段は坂道にかわったが、閑静な境内には五輪塔の形式に統一された鍋島家歴代の墓が並び往時を偲ばせている。閑叟公(かんそうこう)の名で知られる第十代藩主直正は、実子に種痘を行いその普及に努め、西洋医学の発展に貢献、明治維新の原動力のひとりとして活躍した人だ。今、閑叟公の墓は郷里佐賀に移され、墓前に奉納されていた明治の元勲大隈重信、大久保利通等からの灯籠がかたすみに残されているのが寂しい。
境内には有名人の墓も多く、象徴詩人として日本文学の発展に貢献した蒲原有明、日本の動物文学の第一人者で、イリオモテヤマネコの発見で知られる作家の戸川幸夫、国学者久米邦武、洋画家久米桂一郎、作家宮地嘉六、「真白き富士の嶺」の哀歌で知られる七ヶ浜沖ボート転覆事故犠牲者の逗子開成中学生徒の墓もある。また、二・二六事件に関係した二十二士の墓もある。
昭和11年2月26日、雪の未明に起きた二・二六事件は、祖国の将来を憂い決起して軍閥に挑戦した青年将校達のクーデターだが、2日後の28日に「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅命令が下され、戒厳司令部は次のような「兵に告ぐ」というビラを撒く。
『今からでも遅くないから原隊へ帰れ。
抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する。
お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ。』
決起将校たちの「昭和維新」の夢は断たれ、事件後、2名が自決、首謀者17名は死刑、関連事件で3名が処刑された。反逆罪の汚名を着せられ死んだ将校等の遺族も、罪人の身内としての視線に晒され、また、憲兵隊、警察の監視下で遺体の引き取り遺骨の埋葬すらできない状況だった。
そのような情況のなかで、首謀者の一人栗原安英中尉の父 栗原勇大佐は、賢崇寺の第二十九世住職藤田俊訓師に入門、得度して、遺体の収容、遺骨の供養、遺書の保管、遺族との連絡に奔走した。また、藤田俊訓師は、憲兵隊、内務省、警察等へ、遺骨埋葬合同慰霊祭の許可、墓碑の建立を願いでたが、死罪処刑者の公の法要は禁じられ、なかなか許可は下りなかった。「死すればみな仏」と説く藤田俊訓師の信念と献身的な努力、僧籍に身を置いた栗原大佐の情熱がやがて憲兵隊や警察を動かし、藤田師が施主となり役人監視下で二十二士の合同慰霊祭が厳かに営まれたのは処刑された7月12日から久しく日を重ねた秋だった。以後、賢崇寺では毎年二月二十六日と七月十二日に合同慰霊祭が行われている。
現在の墓碑は、昭和27年7月12日第十七回忌法要に合わせて「二十二士之墓」として開眼供養されたものである。二・二六事件からもう73年の時間が過ぎようとしている今、いつまでも平和であって欲しいと思いますね。 |
| (寄稿 ローリエヤマモト 山本仁壽) |
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