| Q |
その計画とは? |
| A |
娯楽機関の設立です。戦前の麻布十番は「日活館」・「十番倶楽部」・「福槌亭」・「一ノ橋映画館」などの娯楽施設を擁し、都内で二位、三位を競う〝集客力のある地域〟として繁栄していましたが、それらの施設は全て戦災で焼け落ちていました。商品を購入することが出来て、憩いの場もあって、お客様と地元の人々が交流を持てることを理想とした石川局長の構想は、麻布十番商店街の先輩達にとっても、共通する目標であり、課題であったのです。 |
| Q |
先ほどの映画館などは、昭和20年代に相次いで復活を遂げていたようですが、『十番わがふるさと』には、もっぱら「十番倶楽部」の建設と、「十番寄席」の復活が細部に亘って採り上げられており、心なしか偏りが見られるように思います。 |
| A |
著者である稲垣利吉氏の最大の関心事が、その辺りにあったことが理由ではないかと思われますね。 |
| Q |
そう言えば、このシリーズで参照させて戴いている『十番わがふるさと』内の原稿は、戦災による焼け野原の場面から始まり、「十番寄席」の閉鎖を契機として終了されています。私達も、そろそろ次の展開を視野に入れつつ進めて行く段階にあると考えていますので、よろしくお願い申し上げます。とりあえずは『十番わがふるさと』の内容に沿って、まとめてみたいと思います。
さて「十番寄席」の復活ですが、これはかなり困難な事業だったようですね。 |
| A |
発案の中心となったのは、戦前の「元十番倶楽部」の経営者であった矢島 章氏(現在の「ツルヤ酒店」ご主人、矢島利明さんの厳父)であったと記されていますね。具体化を図った発起人たちの代表者に選任されたのが、稲垣利吉氏でした。敷地確保に奔走した結果、ようやく建設予定地が決まったのですが、行政の許可が下りなかった。 |
| Q |
戦後の復興期ですから、人間が住むための住宅が優先されたわけですね。 |
| A |
そこで発起人たちは交替で行政の担当各課に日参し、『この計画は決して不要不急ではない。今こそ娯楽が必要である。戦禍によって民心の沈滞せるを一掃し、明日への活力を与える貴重な建物である』と力説しました。商店街の復興に対する理解者であった石川建設局長は、建設担当司政官スタネックス氏及び消防担当司政官アンクロン氏に対して現地視察を促し、許可の方向へと進める約束をしてくれたようですが、その実現は、発案当初から約3年後まで待つことになりました。 |
| Q |
昭和24年4月ですね。 |
| A |
この時は、麻布十番の他、既に申請済みであった都内の演芸場建設地(渋谷道玄坂、新宿歌舞伎街)も視察の対象となったようです。石川建設局長の尽力によって、スタネックス氏からはある程度の了解が得られたようですが、翌5月に実施されたアンクロン氏の視察においては、消防上の理由から設計変更の指示を受け、建設の実現までには更なる期間を要したようです。 |
| Q |
その間に、「麻布十番地域復興会商業組合」が組織されたようですね。 |
| A |
『十番わがふるさと』には、『娯楽機関の建設に際して新しい時代への適応を図るため、そして消防庁の意見に従うため、設計変更を進めた』とあります。そして、それらの事業を推進するためにも、商店街を中心とする『近代化した強力な組織としての組合』が必要であったと記されています。 |
| Q |
「十番倶楽部」の建設と「十番寄席」の復活、そして商店街を中心とする新たな組合組織の結成など、この時期には様々な出来事が起きたようです。それらについて、次回に改めて整理し、伺ってみたいと思います。 |